勝連城はかつてこの地域を支配した按司・阿麻和利の居城としても知られています。勝連城(かつれんじょう・かつれんぐすく)は11〜12世紀頃に築城され、世界遺産に登録されているグスクの中では
最も築城年代の古い城跡といわれています。勝連城の城主は阿麻和利が有名ですが、阿麻和利が初代城主というわけではなく、
1260年に始まった当時の英祖王統の第二代王・大成(初代英祖の長男)の五男が初代の城主(勝連按司)であったと伝えられています。
以来英祖王統系が五代にわたって勝連按司を務め、その後養子縁組によって伊波按司(いはあじ・伊波城主)の6男が6代目、7代目と8代目を地元の浜川按司が務め、
その後に茂知附按司(もちづきあじ)が9代目となります。この頃から勝連城では貿易が盛んになってきて、次第にその勢力を伸ばしてゆくようになってきます。
その茂知附按司の元で配下として重用されたのが後の10代目城主となる阿麻和利です。
ところが、阿麻和利は茂知附按司が酒乱の上、暴君として農民から貢祖(年貢)を高く徴収するなど
専制君主的圧政が人々を苦しめていることを知り、農民と共謀して松明によって城を攻める軍勢を演出し、酒宴の席で酔っ払った茂知附按司を
大軍が攻めてくると城壁の高台に呼び出して突き落とし、勝連按司の地位を手に入れます。
その後は貢祖を安くして勝連の人々からヒーロー的扱いを受け、海外との貿易にも注力して富を得てますます勢力を拡大し、
首里王府を建国した第一尚氏王統にとっても非常に脅威となる勢力となってゆきます。
(逆に言えば、貿易によって多くの富を得たために農民から高い貢祖を取る必要がなかったとも考えられます)
この当時の勝連城の様子は後の沖縄最古の歌謡集・おもろさうしにも詠まれていて、
勝連のことを肝高と呼び、当時の日本本土の鎌倉(幕府)や京都(朝廷)に匹敵するほどの繁栄と書かれているようです。
また阿麻和利についても、勝連の阿麻和利、千年も万年もこの国を治めよと書かれています。つまり勝連城主・阿麻和利は
首里王府から見ると謀反人であるのですが、勝連の人々から見ると非常にいい人となります。
当時の第一尚氏王統は、勝連城の阿麻和利に対し、護佐丸を母方の祖父に持ち、尚泰久王の娘でもある美女・百度踏揚(ももとふみあがり)を妻として送り込んだり、
座喜味城から重臣で武勇に優れた護佐丸を中城城に呼び寄せて反乱の動きを抑えようとしたり、いろいろ画策してゆきます。
阿麻和利はその後、1458年に宿敵で中城城主の護佐丸を滅ぼしてしまいます。(
護佐丸・阿麻和利の乱)
しかし、首里王府に対して謀反を起こそうと画策したために、妻である百度踏揚と付き人の鬼大城(おにうふぐすく・別名大城賢雄・うふぐすくけんゆう)に裏切られて
首里王府に密告され、1458年に逆に鬼大城を総大将とする首里王府軍によって滅ぼされ、妻の百度踏揚を鬼大城に取られるという踏んだり蹴ったりな目に遭い、
ついに勝連城もその歴史から城主が消え、1526年に第二尚氏王統第3代国王・尚真王が地方按司を首里に集める政策を取ったため、
廃墟となってしまいます。その後も荒廃していましたが、2000年12月2日にユネスコの世界文化遺産に登録されたのを機に整備され、現在に至ります。
なお、勝連城の入場料は無料、駐車料金も無料です。
勝連城跡
阿麻和利の居城・勝連城跡を散策してきました。青空と遺跡が当時の琉球王朝時代を偲ばせてくれます。