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護佐丸・阿麻和利の乱と歴史的背景

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護佐丸・阿麻和利の乱と歴史的背景
琉球王国第一尚氏第6代国王であった尚 泰久王(しょう たいきゅうおう)の時代に、
この中城城を舞台に有力按司同士の争いがありました。
勝連半島(現在の与勝半島)を手中に収めた勝連城主・阿麻和利と、
首里王府の重臣で座喜味城に居城していた護佐丸、この時代は
これに首里王府の第一尚氏王統を含めて三つ巴の勢力が展開していました。
当時阿麻和利は貿易によって富を得、勢力の拡大を図っていました。
1440年に護佐丸は首里王府第一尚氏王統・第3代国王である尚 忠王(しょう ちゅうおう)からの命を受けて、
阿麻和利と対峙するために
中城湾を挟んで勝連城を対岸に見ることの出来る中城城に入り、戦闘に向けての準備を始めます。
三の郭、北の郭などはその当時に建築されたものと思われます。
護佐丸は貿易によって利を得ていた阿麻和利に対抗するため、自身も貿易商人を取り込もうとします。
中城湾あるいは奄美の島々を巡って両者の勢力争いは次第に苛烈を極めるようになります。
ところが首里王府側は阿麻和利と同様に貿易によって勢力を拡大しすぎた
王府の重臣であるはずの護佐丸に対しても次第に警戒心を抱くようになってゆきます。
これはあまりに両者の軍事力が大きくなりすぎて、
首里王府とて容易に手出しできないまでに勢力が拡大してしまったからです。
また尚巴志王が南山・北山を統一して第一尚氏王統を誕生させた後も、
尚巴志王死後は地方按司の勢力拡大を阻止する有力な手段も持たず、
1453年王位継承を巡って争われた志魯・布里の乱で首里城が全焼するなど王統内部の内乱などもあって
王府自体の勢力が衰えていたこともあり、
この両者を戦わせて互いの勢力を削ぐように王府側としても考えていたことでしょう。
忠臣である護佐丸に対する首里王府の嫌疑も背景にはこの首里王府の弱体化があったのではないかと思われます。
そこで王府側が謀略を巡らせて、阿麻和利に王府軍として護佐丸討伐を命じたのか、
また阿麻和利が護佐丸の軍備増強を王府に対する謀反の動きありとして忠告し、
これを幸いとして護佐丸に謀反の嫌疑をかけて阿麻和利に中城城を攻めさせたのか、
いずれにせよ王府は重臣であるはずの護佐丸に対して
いい思いは抱いていなかったことは確かなようです。
1458年8月15日、阿麻和利軍は中城城を取り囲みます。
護佐丸は王府軍の旗を持つ相手が阿麻和利軍だと知ってか知らずか、
王府軍に抵抗することなく中城城にて自害します。
王府に裏切られた失望やショックが護佐丸の気力を奪ってしまったのでしょうか。
戦いに勝利した阿麻和利ですが、今度は王府軍に謀反の動きを察知されて
王府軍に攻撃されて滅ぼされてしまいます。
結局この戦いの黒幕は実は首里王府の尚泰久王だったのかもしれません。
この後、首里王府はその地位を磐石なものにしてゆきます。
ただ王府側でも第一尚氏王統はこの戦いの後に尚 泰久王が亡くなり、
その子尚徳王(しょう とくおう)が第一尚氏王統の第7代国王として即位するも悪政を続けたため
評判が悪く、その子は第一尚氏王統を継承できずに尚 泰久王の重臣であった
金丸(後の尚円王(しょう えんおう))に政権が交代し、ここに第二尚氏王統が誕生することになります。
按司の謀反に悩まされた第一尚氏王統時代の反省からか、第二尚氏王統第3代国王・尚真王の時代には、
1526年、南山・北山の按司を首里に強制移住させて地方豪族の反乱と勢力拡大を阻止し、
代わりに首里王府から派遣した按司掟(代官)を置くことで
中央集権化を進めて琉球王国最大勢力を誇ることとなります。

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