青蓮院門跡はもともとは天台宗総本山である比叡山延暦寺の三門跡(他には大原にある三千院と東山区にある妙法院)のひとつで、
かつて比叡山にあった青蓮坊が
その起源となっています。比叡山東塔に青蓮坊を建立したのは伝教大師(最澄)ですが、
その後慈覚大師(円仁)、安恵(あんね)、相応といった著名な僧の住居として使われていたものが、
平安時代末期の1150年、行玄大僧正に帰依された鳥羽法皇が京都の現在の地に門跡寺院を建立し、その子の第七皇子・覚快法親王が
が行玄大僧正に弟子入りして行玄大僧正の後を継いで青蓮院の門主(住職)となったのが青蓮院門跡の始まりとされています。
以後代々に渡って皇族か五摂家の子弟がその門主を務め、格式の高い門跡寺院となっています。
ただ室町時代の応仁の乱(1467年〜1477年)によって当時のほとんどの建物を焼失し、長らく荒廃した時期もありました。
その後豊臣秀吉によって一部の建物が、また江戸時代明和年間1764年〜1772年にかけて、10代将軍徳川家治の時代に徳川氏の手によって
現在の宸殿他の主要な建物が建立されていますが、
現存する青蓮院の建物は、1893年(明治26年)の火災によって四脚門以外の大部分が炎上したため、それ以後に復元されたものです。
青蓮院門跡は別名粟田御所とも呼ばれますが、この名称の由来は
江戸時代後期の1788年1月30日に天明の大火で京都御所が炎上した際に、
当時の後桜町上皇がここ青蓮院を仮の御所として避難された経緯と、青蓮院が粟田山の山裾に位置するところから来ています。
また最後に復興された好文亭の建物は新しく、1993年(平成5年)4月に放火によって焼失したものが1995年(平成7年)11月に復元されたものです。
青蓮院門跡は入り口の薬医門手前にある親鸞の手植えと伝えられている樹齢800年とも言われる大クスノキと共に、
庭園もまた有名で、室町時代に相阿弥が作庭したと伝えられる、龍心池を中心とした池泉回遊式庭園池泉回遊式庭園(築山泉水庭)と、
江戸時代の茶人でかつ作事奉行も務めた造園家でもある小堀遠州の作庭といわれる、キリシマツツジの植え込みが美しい
霧島の庭と、趣の異なる二つの庭園を持っています。
青蓮院の拝観順路はまず薬医門をくぐって拝観料500円を払い、華頂殿の中から相阿弥庭園を見た後、
小御所、本堂、戻ってきて宸殿から内部と宸殿前の庭園を眺め、
そこから壁を繰り抜いた階段通路を通って庭園部分へと出てゆきます。
龍心池を中心とした相阿弥庭園は小御所の前にあり、また庭園を取り囲むように渡り廊下と華頂殿(客殿)があります。
庭園通路から相阿弥庭園を見た後、順路はそこから華頂殿脇を通って叢華殿(そうかでん)とその前にある霧島の庭へ。
ここでUターンをするような形で逆方向から霧島の庭と叢華殿を眺めつつ、好文亭の前へと出ます。
好文亭からは逆方向からの相阿弥庭園を眺めながら
石段を上がると境内裏山にある日吉社へと向かう竹林の道に出ます。
そこから再び本堂裏手の三尊石の西方浄土庭園、本堂前を回りこんでライトアップで有名な宸殿前庭に出て、
四脚門の前を通り、出口となります。青蓮院門跡の紅葉の見頃は11月下旬から末頃です。私の行った2006年では
11月24日でまだ一部紅葉しておらず、翌年2007年再度訪問したときは11月29日でほぼ見頃ピークと言った感じでした。
また青蓮院門跡は昼間・夜の特別拝観問わず三脚一脚は禁止となっています。
青蓮院門跡紅葉の壁紙写真
京都東山にある青蓮院門跡の紅葉の壁紙写真です。