紅葉の名所、奈良市菩提山町の正暦寺の紅葉です。正暦寺(しょうりゃくじ)の名前の由来は創建年年号の正暦から来ています。
992年(正暦3年)に一条天皇の勅命を受けた九条兼家の子・兼俊僧正は菩提仙川に面したこの地に勅命寺として
86坊の堂塔伽藍が立ち並ぶ一大寺院を建立し、正暦寺と命名したのが始まりです。山号は菩提山、
別称を菩提山龍華樹院(ぼだいせんりゅうげじゅいん)とも言います。
兼俊僧正はその後自坊である真言宗報恩院を作って正暦寺の管理を行います。
しかしその後平安時代末期の1180年12月18日に、平重衡(たいらのしげひら)・平通盛(みちもり)の平家軍によって、
以仁王を擁立して平家と対立していた東大寺・興福寺の僧兵を滅ぼした南都焼き討ちの戦火の煽りを受け、
平家軍が夜になって暗くなってきたために灯明代わりに民家につけた火が延焼して東大寺・興福寺を焼いてしまう大火災が発生し、
正暦寺もその類焼のために堂塔伽藍全て焼失し
(東大寺と正暦寺は直線距離で7km〜8km離れているのでかなり大規模な山火事となったと思われます)、
寺領も平家によって没収されて廃墟に近い状態になってしまいます。
平家滅亡後の鎌倉時代に入って、建暦年間(1211年〜1213年頃)に法然上人の弟子の蓮光法師がこの場所に草庵(本殿・安養院と別殿・迎接院)を建立して
浄土宗の念仏道場を開き(念仏宗)、また1218年に興福寺復興を担った当時の住職だった信円僧正が正暦寺再興のために興福寺の別院として法相宗の学問所を開き(法相宗)、
実質の寺の実務を行っていた真言宗報恩院と3つの宗派が混ざり合って、何度か焼失再建を繰り返しながら
戦国時代後期から江戸時代初期には82の堂塔伽藍を持つまでに復興し再び隆盛を極めます。
ただこの後江戸時代に入って1629年には再び火災にて堂塔伽藍が焼失し、1681年(現存する客殿・福寿院再興)〜1700年ごろにかけて復興し、仁和寺末寺となるも、
その後も度々焼失にあい、資金難から復興が難しいところにさらに追い討ちを掛けたのが
明治新政府によって1868年4月5日に発令された神仏分離令が引き金となった廃仏毀釈の運動で、正暦寺も衰退の道をたどることとなります。
現在の正暦寺は国指定重要文化財の客殿・福寿院、国指定重要文化財の本尊薬師如来像の安置されている1916年(大正5年)建替の本堂、1925年(大正14年)再興の鐘楼を残すのみとなってしまいましたが、
1967年(昭和42年)に仁和寺末寺から独立して菩提山真言宗大本山正暦寺となっています。
また正暦寺は日本清酒発祥の地と言われており、福寿院脇を流れている菩提仙川の清流で醸造された「菩提泉酒」は
極上酒であったことが室町時代の京都相国寺鹿苑院内にある蔭涼軒主の日記
「蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)1435年〜1466年-1484年〜1493年」に記されています。
正暦寺は現在では紅葉の名所としても知られています。
頭から覆いかぶさるような木々が紅葉してゆく様は圧巻で、本堂周辺の紅葉や福寿院庭園の紅葉の眺めは素晴らしいものがあります。
正暦寺の紅葉の見頃は11月下旬〜末頃となります。駐車料金は紅葉シーズンは500円、拝観料は福寿院客殿含み500円掛かります。
なお駐車場は約90台分のスペースがありますが、紅葉時期は大変混雑します。
アクセスは西名阪自動車道天理インターで下りて国道169号線を奈良市内方面へ向かって北上し、7つ目の交差点を右折、看板にしたがって進みます。
あと、正暦寺は境内・沿道問わず三脚禁止となっています。奈良県で三脚禁止の場所は京都に比べると比較的少ないのですが、
それだけ大勢の人が詰め掛けるということもあるのでしょう。
正暦寺紅葉の壁紙写真
奈良県菩提山町の正暦寺の紅葉の壁紙写真です。福寿院庭園と客殿から見る紅葉などがとても美しい紅葉の名所です。