隨心院 小野梅園

小野小町ゆかりの隨心院小野梅園は京都市山科区真言宗善通寺派大本山隨心院内にある梅園です。 隨心院はその歴史も非常に古く、弘法大師の8代目の弟子にあたる仁海僧正を開基として 991年、この場所に隨心院の前身にあたる牛皮山曼荼羅寺を建立し、 その後曼荼羅寺第5代僧正の増俊阿闍梨が1121年以降に子房・塔頭のひとつとして隨心院をこの地に建立したのが始まりとされています。 その後第7代親厳大僧正の時に1229年後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り、それ以降隨心院門跡と呼ばれるようになっています。 隨心院境内にある小野梅園は、「はねず」と呼ばれる紅色の梅と、小野小町ゆかりのはねず踊りでも知られています。 実はここは世界三大美人の一人ともいわれる小野小町がはねずの梅を見ながら晩年を過ごした土地という伝説もあります。 百夜通いの伝説では小野小町に恋をした深草少将が現在伏見区欣浄寺のある辺りの屋敷から、山科の小野小町に会いに行くために 百夜通いを続け、満願かなうはずの100日目に道中大雪の中で凍死して(あるいは洪水の川に橋ごと流されたという説も)願いはかなわなかったということになっていますが、 これは後の室町時代に入って世阿弥などによって能楽の題材として作られた話だそうです。 このことから深草少将については後の時代に作られた架空の人物ということが出来そうです。 対して小野小町は実在した人物といわれており、仁明天皇に仕え、平安時代前期の六歌仙・三十六歌仙の一人でもあります。 ただし小町は名前ではなく、更衣に対しての宮中の呼び名を現すものだそうで、実際のところ、本当の名前は良く分からないそうです。 一説では小野氏から来た更衣=小町が小野小町であり、当時の小野氏から来た更衣=842年に宮中に入った小野吉子ではないかという話もあります。 峠を隔てて隣り合わせの伏見区には「深草」の地名があり、隨心院のある山科区には「小野」の地名がありますが、 もともとこの辺りの地名に小野が付くのは、遣隋使としても知られている小野妹子を輩出した小野氏一族が 当時栄えていたというところから来ているそうで、小野小町がいたからということでもなさそうです。 一説によれば小野小町もその子孫とされているそうですが、小野氏一族は近江の小野村(現在の大津市)辺りから京都市付近に掛けて 勢力があり、出生地も晩年も出羽(秋田県)という説を取れば山科の小野氏ではなく、同じく小野妹子の子孫で陸奥国へ出向いた歌人・小野篁(たかむら)やその孫で三蹟の小野道風の血筋ということになります。 古今和歌集目録には出羽国郡司女とあり、小野氏系図によると篁の孫で、出羽郡司良真の娘となっているようです。 ただ小野篁が小野小町の父とすると、小野篁の出死が802年〜853年で、 小野小町の生誕は809年頃、逝去は901年頃とされているようですので、(ただしこれも良く分からない)子とするにはあまりに同年代過ぎます。 出羽郡司であり小野篁の息子の小野良実(良真)が小町の父とすると、出生年から考えると年下の父から生まれたことになりますます疑問です。 また京都の説でも隨心院の位置にかつて小野邸があり、良実が小町の父となっていますが、ここで出てくる良実は秋田の説よりもかなり年上になります。 ハッキリしているのは小野小町なる女性が宮中にて活躍していたのは仁明天皇833年〜850年と文徳天皇850年〜858年の時代に約20年間宮中にいたことだけです。 また小町の出生年が仮に809年として、842年に宮中に入った小野吉子が小野小町だとすると、晩婚化した現在ならイザ知らず、 この当時30歳を過ぎてから天皇の妻として宮中に入るというのはあまりにも遅すぎるのではないかとも思えます。 また13歳で宮中に入ったという記述もあるので、これから逆算すると小町の生誕は809年ではなく829年となり、事情が変わってきます。 それでも良実の子とするにはかなり無理やりな感じがします。いくら短命の時代とはいえ、逆算すると篁が生まれてから良実を生み、その良実がさらに娘の小町を生むまでわずか27年間という期間しかないわけですから。 小町は仁明天皇没後の852年には30歳過ぎの若さで宮中を去ったという説もあり、小野吉子が小町だとするとわずか10年しか宮中にいなかったことになります。 また小町の生誕についてはこれ以外にも815年という説や821年という説もあります。 このようにいろいろな説がありどれが本当かはっきりと分かりません。この時代に生きていた実在していた人物ということは間違いないようですが。 隨心院境内には小野小町の化粧井戸といった遺構も残されてはいますが、 小野小町の生誕809年が正しければ牛皮山曼荼羅寺がこの場所に出来るより100年近く前の話ということになります。 つまり小野小町の屋敷跡に100年ほど後に牛皮山曼荼羅寺が建てられ、さらにそれより130年以上後に塔頭・隨心院が建てられたということになるのでしょう。 小野庭園の梅を小野小町自身が見ていたということはなさそうですが、隨心院の前身となる曼荼羅寺が出来るよりも以前に、 この場所で梅の花を観賞していたということはもしかするとあったのかもしれません。 小野小町自身が絶世の美人であったというのも確たる証拠も無く、古今和歌集編集者で歌人であった紀貫之が「小野小町はいにしえの衣通姫の流れなり」 (衣通姫は日本書紀に出てくる5世紀の伝説の美女)と書いていることからそれがいろいろな美人伝説の元となり、 尾ひれが付いて後年作られた話の可能性が高いそうで、謎に包まれています。 隨心院に伝わる百夜通いの伝説は普通に語られているものとは少し違い、深草少将は死んでしまうのではなく99日目の夜にあまりの雪のひどさに従者を立てて小町の元へ通わせ、 もう迎え入れてあげようと出てきた小町が深草少将と違うことを見破って愛想をつかしたことになっています。その後晩年を迎えた小野小町がはねずの梅の咲く頃、近くの子供達と楽しく時を過ごしたという話を民謡化した 「はねず踊り」では、小町と深草少将に扮した子供達が舞う行事が満開の梅の花のもと、3月30日に隨心院境内にて行われています。 いろいろな伝説のある隨心院と小野梅園ですが、園内は比較的こじんまりとしています。簡単に見て歩くだけだと 10分も掛からないですが、紅色のはねずの梅を中心に、ピンクの梅や白梅が約230本ほど、所狭しと咲き誇っていて、 中身の充実ぶりは見事です。小野梅園の梅は開花時期が京都の中でも最も遅く、 小野梅園の見頃は3月下旬頃、駐車場は無料、入園料は400円です。
隨心院名勝小野梅園入り口
隨心院名勝小野梅園入り口
咲き始めのはねずの梅
咲き始めのはねずの梅
はねずの梅とピンクの梅と青空
はねずの梅とピンクの梅と青空
ピンクの梅の満開
ピンクの梅の満開
園内通路と咲く白梅
園内通路と咲く白梅
梅の枝に止まるメジロ
梅の枝に止まるメジロ
梅の蜜を吸うメジロ
梅の蜜を吸うメジロ
小野小町ゆかりのはねずの梅
小野小町ゆかりのはねずの梅
ほんのり春を感じる小野梅園
ほんのり春を感じる小野梅園
梅の曲がった幹
梅の曲がった幹
ピンクの枝垂れ梅
ピンクの枝垂れ梅
はねずの梅と白梅と借景の音羽山
はねずの梅と白梅と借景の音羽山
EF70-200mmで見る白梅
EF70-200mmで見る白梅
ピンク梅と背景のはねず梅
ピンク梅と背景のはねず梅
はねず梅越しに見る白梅枝垂れ
はねず梅越しに見る白梅枝垂れ
F2.8でぼかして見る白梅枝垂れ梅の枝
F2.8でぼかして見る白梅枝垂れ梅の枝
はねず梅の中にある白梅
はねず梅の中にある白梅
梅園の背景の処理
梅園の背景の処理
濃いピンクのはねずの梅
濃いピンクのはねずの梅
薄いピンクの梅
薄いピンクの梅
苔むす梅の木と白梅
苔むす梅の木と白梅
春らしい色の梅
春らしい色の梅
咲き始めのはねず梅
咲き始めのはねず梅
青空に映えるピンクの梅
青空に映えるピンクの梅
柔らかなほんのりピンクの梅
柔らかなほんのりピンクの梅
青空背景のピンクの梅
青空背景のピンクの梅
白梅の手前ぼかしと背景ぼかし
白梅の手前ぼかしと背景ぼかし
外から見た隨心院小野梅園の梅
外から見た隨心院小野梅園の梅
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撮影地 隨心院小野梅園(京都府京都市山科区小野) 撮影日2008年3月21日
撮影カメラ EOS 5D レンズ EF 70-200mm F2.8 L IS USM
参考GPS測位標高データ 隨心院小野梅園入り口 標高25m
緯度経度 北緯34度57分33秒77 東経135度48分56秒64


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