兵庫県加東市(旧加東郡滝野町)にある闘龍灘の壁紙写真です。
闘龍灘は加東市(旧滝野町)を流れる加古川にある巨岩や奇岩が集まるところであり、加古川最大の難所としても知られています。
江戸時代前より加古川は北播磨と東播磨や高砂、果ては大阪を結ぶ水路を使った舟運が非常に盛んな土地柄で、
最初に加古川舟運が始まったのは戦国時代豊臣氏が隆盛を誇っていた1594年だといわれています。
最初は年貢米の運搬のために東播磨の豊臣領を治めていた当時の生駒玄蕃という人が、
陸路より効率的に豊臣氏の居城がある大阪へ向けて貢米を運搬する方法はないかと考え付いたのが
加古川を舟底の浅い高瀬舟で運搬することでした。同時に加古川の川底を高瀬舟が運行できるように
整備するという大事業も行っています。こうして始まった加古川舟運ですが、当時まだ闘龍灘の部分だけは
舟で行き来することが出来ない難所となっており、主に物資は下流の滝野から加古川下流へ向けて運搬されていました。
江戸時代に入り、1600年に姫路城城主となった池田輝政が、今度は闘龍灘以北の加古川の整備に着手し完成させたため、
氷上郡(現在の丹波市)から高砂までの水路が完成することになります。
ところでこの時点でもまだ闘龍灘の掘削は行われておらず、
闘龍灘の部分は川幅いっぱいに広がる巨大岩石や落差3mもの幅の広い滝に阻まれていたため、
加古川上流からの物資の運搬はここで一度滝落しといわれる作業で物資を細かく分けて滝を落とし、
下流で再度組みなおしたり、ここだけ陸に荷揚げして闘龍灘の下流から再び舟に積み直すといった
非常に手間のかかる作業が必要となっていました。
この闘龍灘の岩盤掘削の工事が行われるのはさらに時代を経て、明治新政府となった明治時代まで待たねばなりませんでした。
1872年(明治5年)に新政府に対し岩盤掘削工事を依頼し、1873年(明治6年)1月にいよいよ現在掘割水路と呼ばれる長さ180m、幅8m、深さ4mの岩盤掘削工事が行われることになります。
当時生野銀山に招いていたフランス人技師のムースという人を指導者に迎え、
ダイナマイトを使用して岩盤を爆破するという工法による工事は約1年で終了、1873年(明治6年)12月に完成し、
ここにようやく現在のように積荷を載せ変えることなく舟で運搬が出来るようになりました。
このような歴史を持つ闘龍灘ですが、1899年(明治32年)の福知山線・1913年(大正2年)の加古川線の開通によって
物資運搬の主役は鉄道に取って変わられ、現在では当時の面影を残したままの荒々しい渓流が流れています。
また掘割水路が完成した後は、鮎の遡上が見られるところとしてもその名を現在に馳せています。
ここ闘龍灘は鮎漁が非常に有名です。
筧どりといわれる鮎の遡上してくる性質を利用して人工の滝に導き滝壺に仕掛けたかごで生け捕るという漁法も盛んで、
毎年5月1日、全国で一番早く鮎漁が解禁になることでも知られています。
また5月3日には
鮎祭り花祭りと称して夜は花火大会もこの場所で行われます。
闘龍灘の名前の由来は幕末の詩人で全国を旅して漢詩を綴った梁川星巖の七言絶句の中に詠まれた、奇岩を流れる加古川の激流が、
一大白布の垂れるがごとくまるで巨大な龍が躍動し闘っているように見えることからその名が付いたようです。
またこの奇岩群は主に有馬層群鴨川層と呼ばれる約7000万年前の火山活動によって降り積もった火山灰が固まって出来た岩石が露出しているものとされているようです。