スポンサーリンク

談山神社の歴史

スポンサーリンク

談山神社の歴史は非常に古く、中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)
の活躍した飛鳥時代にさかのぼります。
この頃権力を握っていたのは大和朝廷で軍事を司取り、強大な勢力を持っていた物部守屋氏や
皇族の山背大兄王を滅ぼし、権力を増大させていた豪族・蘇我氏。
その蘇我氏の振る舞いを見て皇室の中大兄皇子は中臣鎌足と共に大化の改新と言われる
蘇我氏追討と皇族の権力復活、日本の政治について語り合う場を
645年・大化の改新直前にここ談山神社の裏山にあたる多武峰(とうのみね)で話し合ったとされている。
大化の改新が成功し、蘇我氏を滅ぼした後、天智天皇となった中大兄皇子が中臣鎌足に死の直前藤原姓を与え、
ここから藤原氏の先祖となる藤原鎌足が誕生することになる。
後に大化の改新を談りあった山というところから談らいの山転じてこの神社の名前・談山神社の名前のもとになったそうです。

談山神社はもともとは藤原鎌足の長男定恵(定慧)が669年に
鎌足を供養するために十三重塔を多武峰に建立し、妙楽寺としたのが始まりのようです。
その後次々と境内の建築物が建立されていきましたが、談山神社と名前がついたのは最近、明治に入ってから。
当時の明治政府の方針で神仏分離、廃仏毀釈が行われ、それまで神仏融合的性格が強かった談山神社も
その方針に従い神社となった。そのときに談らい山を取って談山神社となったそうです。
明治政府が廃仏毀釈を行ったのは、仏教よりも尊王思想、
天皇を神として敬わせるのに神道が都合が良かったためも知れません。
この強力に進められた国家神道は後の太平洋戦争の時まで神の国日本として
天皇を神として戦争に突入し、敗戦に至るまで国民の思想を統制するのに役立ったのかも知れません。

サイトトップ奈良県11月紅葉談山神社次へ

談山神社の歴史 左クリックで談山神社へ右クリック背景に設定で壁紙へ

壁紙サイズ

カスタム検索
FORCE Club 大学入試対策講座eラーニングユーザー募集
FORCE Club 資格対策講座eラーニングユーザー募集