篠山城址と桜の壁紙写真です。
篠山城址公園は兵庫県下屈指の桜のスポットでもあります。
石垣に映える桜はいにしえの昔の面影を偲ばせてくれます。
篠山城址は最初、関が原の合戦で勝利した徳川家康が、
大阪城攻めの目的と、西日本の大名と大阪城の豊臣軍を分断させる目的で、
交通の要衝の篠山に城を築かせたのが篠山城の始まりなのだそうです。
江戸幕府誕生とともに徳川家康の号令によって集められ、
普請総奉行に任命された池田輝政や藤堂高虎はじめ西国20の諸大名延べ8万人の人夫の賦役によって
築城は1609年3月に始まり、途中天候不順や洪水に悩まされながらも
その年の秋には終了するというわずか6ヶ月間の突貫工事だったらしいです。
篠山城は江戸時代初期に建てられた比較的新しいお城ですが、天守閣が存在しません。
篠山城は西日本の守りの要として、代々徳川家の息のかかった譜代大名が城主となっているので、
特に戦火で焼け落ちたわけでもないはずですが、何と元々から篠山城には天守閣が存在していなかったそうです。
それは実戦主義の徳川家康の意向が働いていたそうです。
初代篠山城主は家康の実子の一人、松平康重です。
その後明治時代に入って1871年(明治4年)の廃藩置県と1873年(明治6年)の城郭取り払い令によって
篠山城も大書院を除く櫓門・門扉、小書院や奥御殿、城主居間などほとんど全ての建物が取り壊されました。
これは大書院取り壊しに多大な費用がかかると見積もられたことが理由だそうです。
その残った大書院も1944年(昭和19年)1月6日火災のために焼失し、
現在は新たに2000年(平成12年)4月に再建された大書院の建物が篠山城址二の丸に残されているのみです。
篠山城址は春先には満開の桜が城址公園一帯を包み込み、
その華やかさに当時の面影を偲ぶのみとなってしまいました。