クリスマス間近の旧居留地周辺の夜景の壁紙写真です。
旧居留地は神戸市中央区元町・三宮一帯にある外国人居留地の総称です。
現在でこそここは神戸の中心部の一角を占めていますが、旧居留地が出来た当時、ここはまだ開発されておらず、
当時の神戸の中心であった兵庫から東に3km以上離れた砂地に外国人居留地が建設されたものが現在の旧居留地の原型です。
兵庫の市街地と旧居留地が離れて建設された理由は、日本人と外国人の無用な紛争を避けるという目的でもあったようです。
ハイカラな印象がある神戸ですが、やはり外国人が入ってきた当時はさすがにかなりの警戒心を持っていたことが伺えます。
旧居留地が出来た時代背景は鎖国政策の終焉に伴うものです。
江戸時代末期の1856年、日本は日米修好通商条約を結び、開国することになります。
当時黒船と呼ばれたアメリカ船が相次いで日本に鎖国政策を止めて開国するように迫ります。
特に日米修好通商条約が結ばれた1856年には、アメリカ以外にも欧米列強の英仏連合軍がアロー号事件の絡みで
中国(当時の清)を攻撃していたこともあり、それを例に脅された江戸幕府側は止む終えず開国したという事情もあったようです。
もともと条約では当時の神戸の中心である兵庫港を開港する話だったのが、摩擦を嫌がった日本側が神戸を代わりに開港し、
それに合わせる形で神戸港の周辺に外国人居留地をイギリス人土木技師J・W・ハートの設計の元建設し、
1868年に神戸港開港、外国人居留地を提供したのが旧居留地の始まりです。
またこれとは別に、中国人居留地があり、神戸では現在の南京町がこれに相当します。
旧居留地に中国人が入れなかったのは条約締結の中には中国は入っておらず、また
当時イギリスに半植民地化されていた中国(清)と同じ居留地に住むことを諸外国が嫌がったためとも考えられます。
また、明治政府になってから廃藩置県を行い、現在の兵庫県が誕生するわけですが、
これは条約には兵庫港を開港するはずが代わりに神戸港を開港したため、条約に違反すると
諸外国から非難されていたため、神戸港のあったところを兵庫県とすることで強引に正当化したという背景もあったようです。
横浜港も条約では神奈川港のはずが横浜港になっており、
廃藩置県で神奈川県としたのも同じ理由によるものだそうです。
旧居留地(兵庫県神戸市)
ジョルジョ アルマーニ ブティック
旧居留地・夜景の壁紙
フェラガモ ブティックのクリスマス飾り
仲町通り旧居留地38番館の夜景
ルイヴィトンと点灯前のルミナリエ
撮影日2003年12月8日