福原京は現在の神戸市兵庫区付近にあたります。 このあたりはその時代の平家が作ったとされる遺跡が多数残っています。 また神戸では福原の地名が新開地に残っています。 こちらの福原は桜筋と柳筋とからなる歓楽街ですが、直接現在の福原とこの当時の福原京とはつながりは無いそうで、 歓楽街が明治時代に初代兵庫県知事の伊藤博文によって作られた時に福原京にちなんで福原と名づけたようです。 もともとは外国人居留地に住む外国人のための慰安の場所として発展してきたようです。 ま、もともとそんなことは夢にも思っておらず、日宋貿易を重要視していた清盛は ここに1180年、京より都を移し、当時の大輪田泊(現在の神戸港)を一大貿易拠点として発展させる計画でいたようです。 ただ残念ながらこの夢は源氏の蜂起によってわずか6ヶ月であっけなく終わります。 神戸に都が遷都されたのは後にも先にもこの6ヶ月間だけでした。
1185年3月24日、都落ちした平家と源氏の最後の戦いとなる壇ノ浦の戦いが行われた。 当時水軍を擁し、海の戦いに慣れているといわれた平氏有利に進んだ戦いも、 義経の敵船の水夫や舵取りに矢を集中させる奇襲によって形成が逆転し、 汐の流れが変わったことも源氏に味方して、平家はここに滅亡することになる。 この場面は清盛の正妻・時子(二位尼)が安徳天皇(建礼門院徳子と高倉天皇の間の子)を抱いて、 宝剣神璽を抱いて海に身を投げる直前の場面と思われる。
秀衡死後の1189年、頼朝が藤原秀衡の子である泰衡を脅し、 義経一行は衣河館にて藤原泰衡の急襲を受け、義経は持仏堂で自害します。 そのとき弁慶は義経に敵を近づけまいと、全身に矢を浴びて、 立ち往生したままで壮絶な最後を遂げる事になります。
義経追放後、義経を追って京を飛び出し、追っ手に追われていた静は、吉野で義経と別れてしまいます。 吉野山中で頼朝方の追ってに捕まった静は鎌倉の頼朝の元に送られ、監視下に置かれます。 あるとき頼朝の命令で鎌倉の鶴岡八幡宮の神前にて舞を奉納することになりますが、 凛とした姿で舞を舞いながら義経への思いを歌ったため、頼朝の逆鱗に触れます。 頼朝の妻・政子(北条政子)はその姿に痛く感服し、頼朝を諫め、その場は収まったようです。 義経の悲劇と滅亡してゆく平家を見事に菊人形で表現したひらかた菊人形展が無くなることは非常に残念ですね。