京都市北区鷹峰(たかがみね)にある源光庵(げんこうあん)の紅葉の壁紙写真です。
源光庵は京都市北区鷹峰町の閑静な住宅街の一角にあります。
山号を鷹峰山(ようほうざん)正式名称を鷹峰山寶樹林源光庵と号する禅寺で、
創建は南北朝時代の1346年に臨済宗大本山大徳寺の二代目の徹翁義享(てっとうぎこう)国師が、当初徹翁国師自身の隠居する庵として
創建したものが後臨済宗の寺となったものです。
江戸時代初期の1694年に曹洞宗加賀大乗寺第27代住職であった卍山道白(まんざんどうはく)禅師が住職として源光庵に赴任し、
曹洞宗に改宗となります。源光庵中興の祖とも呼ばれる卍山禅師はその後同じく1694年に金沢の豪商・中田静家居士の寄進によって入母屋造の本堂を建立し、
本尊として釈迦牟尼仏を、脇立として迦葉(かしょう)尊者と阿難(あなん)尊者を安置します。
また本尊の隣には霊芝観世音が安置されていますが、これは卍山禅師が1681年の春に京都宇治田原の山中にて感得した
霊芝自然を表現した観音像だそうです。
入り口の楼門に掲げられた「復古禅林」の扁額の意味は、当時卍山禅師が曹洞宗の
寺を継ぐと僧はその法系を棄てなければならないという当時の悪習慣を改めて、曹洞宗開祖・道元禅師の正伝の旧来の慣習に戻そうという意味で、
復古としたのだそうです。
そんな卍山禅師の功績を讃えようと、江戸時代中期の1719年には別称復古堂とも呼ばれる、開山堂が完成し、卍山禅師の木像を収めてあります。
そこから源光庵の別称を復古禅林とも呼ぶようです。
また、源光庵には有名なものに血天井と悟りの窓、迷いの窓があります。
血天井は本堂の天井全体にあり、かって関が原合戦の年の1600年8月1日に、その前哨戦ともされた伏見城の戦いで、
徳川家康の忠臣であった鳥居彦右衛門元忠がわずか1800人の勢力で4万ともいわれる
石田三成軍に伏見城を攻め落とされて、残る約380人の部下と共に自刃して果てた際の血で染まった伏見城の床の部分を
源光庵の本堂天井に使用したものです。他にも伏見城の床板は血天井として養源院(京都市東山区三十三間堂)・宝泉院(京都市左京区大原)・興聖寺(京都府宇治市)・正伝寺(京都市北区西賀茂)の天井に残されています。
血天井の元となった伏見城は、一部焼失していたものを関が原合戦後の1601年家康自身の手によって再建されますが、
幕府自身が制定した1615年6月13日の一国一城令によって家康死後の1625年に
京都二条城に役割を移して伏見城は廃城が決定し、
徳川家の手によって完全に解体されてしまいます。当時徳川家と懇意であったとされる卍山禅師は本堂創建にあたり、伏見城の遺構の床板を1694年に貰い受けて移築し、
現在のような血天井になったのだそうです。
これは当時の悲惨な戦いで自刃した武士達を供養する目的もあったのだろうと思われます。
また本堂には丸い形の悟りの窓と角型の迷いの窓の二つの窓が、本尊の向かって右隣の壁に作られています。
有名な悟りの窓は丸い形をした大きな窓で、円型に禅と円通の心を表し、丸の円は大宇宙を表現しているのだそうです。
その右隣にある迷いの窓は角型をして、上側に格子の入った窓で、角型に人間の生涯を象徴し、生老病死の四苦八苦を
現しているのだそうです。
源光庵の紅葉の見頃は年によって若干変動しますが11月下旬〜末頃です。京都市内よりやや標高が高いことで市内南部より少し紅葉は早い感じがします。
源光庵へのアクセスは車の場合名神自動車道京都南インターで下りて、分かりやすいのは西大路通を北上し、金閣寺前を過ぎて
北大路通を道なりに東進し、千本北大路交差点を府道31号線鷹峰町方面へ左折して北上し、仏教大前分岐を左手に取って道なりに進み、鷹峰の信号を左折するとすぐ右手にあります。
駐車場は無料ですが30分以内で出てくださいと言われました。比較的狭いスペースしかありません。拝観料は楼門をくぐって本堂右手前を入って拝観受付で払います。拝観料は400円です。
源光庵の紅葉
悟りの窓や迷いの窓、血天井で有名な京都源光庵の紅葉の壁紙写真です。